4月11日の呪い

晴れ4/1の日記に書いたけど、人生の分岐点についての日記を、今日4月11日に書こうと思っていた。 2004年4月11日は自分の運命を変えた日。 それについて、そこに至るまでの人生の分岐点を書こうと思っていたのに。


今日、右手首の舟状骨にヒビが入った。


朝は三女のスイミングがあるが、それまでにやりたいことがあったので、平日と同じく8時に起床して、10時までパソコン作業をして、三女のスイミングへ。
スイミング後はグラッチェでお昼ごはんを食べる約束をしていたのだけど、グラッチェ到着直前で、既に12時40分になってしまっていて、三女の歯医者の予約が13時半からだったので、これは間に合わないと思い、グラッチェに行かず引き返してきて、仏生山のマクドナルドでお昼ごはんを食べて歯医者へ。 三女は虫歯が3つもあり、それを全て治療してもらった。

その後は西村ジョイでキュウリやトマトの苗を購入して帰宅。
庭に穴を掘って、野菜用の土を入れて、購入した苗を植えて、これで夏には家庭菜園でキュウリやトマトが食べられるようになるのが楽しみ。
その後、草抜きをして、三女と一緒にブレボーで遊んでいるときに悲劇が起きた。 ブレボーで遊んでいて、段差を超えたときにバランスを崩してブレボーが前に吹っ飛び、自分はお尻と背中をコンクリートに強打した。 打った瞬間、殴られたような衝撃が頭に走ったが、頭は打ってないみたいで良かったが、30秒くらい背中とお尻が痛くてうずくまっていた。 ようやくそれが落ち着いたときに、右手首が痛すぎることに気づいた。 立っていたら血の気が引いて頭が非常に冷たいし、視界の3割位が砂嵐に覆われていて、これはまずいと思った。 草抜きしたばかりなので手が汚れていたので、手を洗って水を飲んだが、血の気が全然戻ってこず、手首もメチャメチャ痛いので、保冷剤で冷やしながら少し寝ることに。
打ったのが16時半くらいなので1時間くらい寝て、17時半くらいに目が覚めたのだけど、右手首が先程より痛くなっていてあまり大きく動かすことができない。 内出血もしているし、この痛みなので、これはもしかして骨折かもしれないと思った。 土曜日の17時半だし、もうやっている病院があるかわからないが、急いでスマホで調べたら、小村町の整形外科が18時まで空いているとのことだったので、電話して18時を少しすぎるかもしれないが、受付してもらえることになった。

18時10分くらいに病院に到着して、この時間でも結構混んでいたので待って、レントゲンと診察をしてもらい、診断は「右手首の舟状骨の骨折マイナス」、いわゆるヒビというものらしい。 舟状骨は治りにくい箇所なので時間がかかると言われた。
取り外しの出来るギプスみたいな固定器具を作ってもらい、包帯巻いて固定した状態で帰宅した。 まさか骨にヒビが入るとは…… 金額は結構高くて、4,360円もかかった。

怪我をしてしまったものは、もうどうしようもないが、右手首なのでマウスやキーボードがきちんと操作出来るかが不安だ… 日々の膨大な作業量は変わらず、作業スピードだけ落ちたら死ねる。
何かしら画期的な方法を編み出さないといけないかもしれないが、最近のコロナのように、ピンチのときにこそ会議や通勤が無駄だということに気づいて、時代が進むというのもある。 今回の自分の件も、そういうポジティブな方向で考えていきたい。 幸いにもエントリーしているマラソン大会は全て中止だし、今年はトライアスロン出場しないので、自転車やスイミングの練習できなくても大丈夫なので… しかし、足じゃなくて手で良かったと思う。 手も使えないと不便だが、足よりはマシだ。

今日の出来事で、かなり長くなってしまったが、人生の分岐点をここに書いていきたい。
そもそも自分がなぜいま高松に住んでいるのかというところから始まる。 高松に来たきっかけは、2005年~2006年にかけてパート契約で勤めていた会社の出張で高松営業所に来たのがきっかけ。 そこで妻と出会って高松に移住して結婚することに決めたので、今高松に住んでいる。

では、なぜパート契約で働いていたのか。 それは、2004年の8月に出発した、原付で日本一周の旅の途中で骨折して、途中断念したからだ。 断念したのが2004年の10月。 断念したので、資金を貯めて、近いうちにリベンジしたいという気持ちがあった。 そのためすぐ辞めるので正社員じゃなくパートで働こうと思ったのだ。

では、なぜ日本一周の旅に出たのか? それは、2004年4月11日に、フリークライミング中にグランドフォール事故を起こして、1ヶ月半くらいの入院生活があったからだ。 入院している間は暇すぎて、色々考えてしまった。 今の人生のままでいいのか、他にやりたいことはないのかなど。 で、入院中にその当時働いていた会社を辞めて、日本一周の旅に出ようと思ったのだ。

では、なぜ人生を変えるような事故を起こしたフリークライミングをしていたのか? フリークライミングに出会ったのは高校1年生の時だった。
1年生になった直後、クラスで委員会を決めることになった。 自分は特にやりたい委員とかなかったのだけど、残った委員が、野球部の夏の大会を応援する「応援委員」というのしかなかった。 だけど運動部に所属すれば応援委員は免れることが出来るという。 中学校の頃は野球部で普通の運動部だったので、高校では部活に入らないで気楽に暮らそうと思っていたのに、応援委員をやりたくがないために運動部に所属することにした。 だけど、野球はもう続けたくないし、気楽な運動部を探していたら「登山部」というのがあった。 部活動紹介では「春夏はキャンプ、冬はスキー」という言葉に騙されて入部したのだった。 確かに春夏はキャンプ、冬はスキーに行ったが、普通にマラソンで体力をつけたり、きつすぎる登山をしたりと、それほど気楽な部活ではなかった。 そして、不幸な事に、運動部に所属したのに応援委員になってしまった……
高校で登山部を選んだのは中学校で野球をやっていて、もう続けたくないなと思ったのが原因だ。

では、なぜ中学校で野球部に入ったのか。 これはノリでしかなかった。 当時は夜の6時半くらいからほぼ毎日巨人戦がTV放送されていて、家ではそれがついていることが多かった。 いつだったかはっきり覚えてないけど、中学生になった直後か、6年生の卒業間際に、友達と話していて「この前の飯田選手のホームランキャッチのすごかったね」みたいな話題だった。 今調べたら飯田選手がホームランキャッチした記事や動画が見つからなかったので、キャッチしたのかキャッチしようとしたのかがわからないのだけど、あんなプレーがしたい、ってことで、ノリで野球部に入るのを決めてしまったのだ。

そんな感じで遡っていくと、いま高松でこうやって暮らしているのは、中学校で野球部に入ったからなのかなぁ、と思ったり。
人生でというか、日常でも様々な選択があり、もしあの時あっちの選択をしてれば、っていう妄想はよくする。 ただ、パラレルワールドでもない限り、そっちの選択をしたらどうなっていたかなんてわからないし、自分だけですら大小あるけど1日に10個以上の分岐点はあると思う。 当然自分以外の人も同じくらいの分岐はあるはずなので、もし自分があの選択をしていた場合、Aさんにはこの選択肢はでなくて、別の選択肢だったり、と考えると、パラレルワールドなんて多すぎてきりがない。
仮に、もし自分の身の回りの10名くらいだけでパラレルワールド作れたとしても、1日分だけで200~300くらいの世界が誕生するだろう。 それが1年分にもなれば、1年で数億個のパラレルワールドが出来てしまう。

あの時こうしていれば、って後悔はあるし、まさに今日もブレボーしないでもっと草抜きしていれば、とかあるけれど、起きてしまったことを悔いるのは、悔いることで未来が変わるならいいけど、現実は変わらないので時間の無駄なので、どうやったらこの現状でより良い未来にすることができるか、原因があるならそれを起きないようにすることができるか、というのを考えていかないと。
飲み会の席とかで、愚痴の言い合いとか、よくあるけど、あれこそ愚の骨頂で、愚痴をいうより改善案を、という気持ちで日々生きている。 愚痴を言っても何も変わらないので。

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